妖怪チャーナック
ごきげんよう。クンクン博士じゃ。
「あれ?おかしいな…。こんなところで、赤ん坊の泣き声が聞こえるとは…?」ペドロは、何世紀もの時間を生きてきた大木たちが鬱蒼と茂る森の中で立ち止まった。
この日、森をはさんだ隣町に住む友人の祝い事に出席したペドロが帰路に着いたのは、夜もだいぶ更けてからじゃった。近道しようと森に入り、星一つない夜道を急ぎ足で歩いておった時、誰かの泣き声が聞こえたような気がした。近いようで遠い、遠いようで近い、救いの手を求める痛々しい赤ん坊の泣き声。
怪訝に思ったのもつかの間、その声に誘われて半ば夢遊病者のようにふらふらと森の中をさまよい始めたペドロは、やがて声の主を捜し当てた。それは籠の中で身じろぎしながら両手を天に差し伸べ、「抱いてくれ」と訴えておるようじゃった。
「おう、おう。かわいそうにな。こんな可愛い赤ん坊を危険な森の中に置き去りにするとは、ひどい親もいるもんだ」ペドロは思わず赤ん坊に近づき、抱き上げた。その時…!
先ほどまでの天使のような泣き顔から、赤く血走った目と鋭い牙を持つ恐ろしい妖怪の形相へと豹変を遂げた赤ん坊が、鷹のような爪をがっちりとペドロの肩に食い込ませるや、電光のごとく喉笛に喰らいつき、頚動脈もろともこれを喰いちぎった。驚きと恐怖で身動きができなくなったペドロは、目をかっと見開いたまま、地面に仰向けに倒れた。後は、妖怪「チャーナック」の獲物をむさぼり喰らう「ぴちゃぴちゃ」という音だけが夜の森を支配しておった…。
チャーナック(TiyanakまたはTianak)は、フィリピン各地に昔から伝わる赤ん坊の妖怪じゃ。先の物語のように森に棲み、赤ん坊に姿を変えて獲物を誘い込む術を得意としておる。他の妖怪同様、人間の方向感覚を狂わす超能力を備えており、子供をしょっちゅう誘拐するらしい。赤ん坊を誘拐した後、その子に化けて親を森に誘い込むっちゅー段取りなんじゃろうな。そんなことをされちゃ親はいちころじゃ。
また、鳥に姿を変えて飛び回ったりもできるそうな。情報収集能力にも長けておるということかの。
本性を現した時のチャーナックの姿は、鋭い牙と爪を持った赤ん坊の化け物からヌーノのような小人の爺まで、地方によって様々じゃが、ワシは個人的には赤ん坊の化け物ちゅーイメージのほうが好きじゃな。小人の爺はヌーノで充分じゃ。
その姿同様、チャーナックの正体についても(1)小鬼(小悪魔)(2)洗礼を受ける前に死んだ赤子の霊(3)中絶などで生まれる権利を拒絶された胎児の霊(4)母体が妊娠中に死んでしまい、そのまま土に育てられて妖怪化した赤子 と、地方によって様々な説がある。
特にミンダナオ島の先住民族の間で信じられておる(4)については、マレーシアに母体の方の妖怪「ポンティアナック(Pontianak)」が存在しとるのが興味深い。マレー人がポンティアナックの伝説と共にミンダナオ島に上陸し、やがてPontianakの子供バージョンとしてTianakが生まれたとも推測できるからじゃ(ワシが勝手に推測しとるだけで、根拠はないがの)。ちなみに「Pontianak」の語源は、マレーシア語の「Perempuan Mati Beranak」じゃそうな。Perempuan(女性)、Mati(死ぬ)、Beranak(お産)、つまり「お産の時に死んだ女性(の霊)」ちゅう意味らしい。
ところで、ポンティアナックを調べとるうちに、もう一つ興味深いことが分かった。どうやらフィリピンの代表的な妖怪「マナナンガル」に似た妖怪もマレーシアに棲んでおるらしいのじゃ。こちらは「ペナンガル(Penanggal)」というて、女妖怪の首だけが臓器をぶら下げながら飛び回るらしい。
さて、邪悪な赤子、チャーナックの魔の手から身を守るには、いくつか方法がある。
1)シャツを裏表逆に着る。チャーナックはそのこっけいな姿を見て笑い出し、襲うのをやめておとなしく森に帰るという。シャツを裏表逆に着て難を逃れるところは、ティクバランと似ておるの。
しかし、シャツを表裏逆に着ただけで笑い転げて解放してくれるということはじゃ、とっさの場合、「コマネチ!」とか言って一発芸を披露すれば助かる可能性大じゃな。ただし、調子に乗って相手にも強要しちゃいかんぞ。
2)騒がしい音を立てる。そうすると騒音に耐え切れずに逃げ出す。これも騒音を嫌うっちゅー点でティクバランに似ておる。
そういえば、「堕胎児の生まれ変わり」というティクバランの生い立ちもチャーナックに似ておる。もしかしたら、ティクバランはチャーナックから派生した妖怪なのかもしれんな。元々馬はフィリピンにはおらず、スペイン人侵略者が持ち込んだらしいから、当時のフィリピン人は生まれて初めて見る馬の異様な姿に恐れおののいたことじゃろう。それを見たスペイン人支配者が、土着民の夜の行動をコントロールするため、馬の姿とチャーナックの伝説を巧みに合体させた妖怪をでっちあげて広めた、とかの。
3)ニンニクやロザリオを身にまとう。これは、チャーナックがマレーシアの吸血鬼と呼ばれとるポンティアナックの子供バージョンと考えれば納得がいく。
ま、一番の予防策は「夜中にたった一人で森の中に入らんこと」これに尽きるの。
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